「明治大学創立者 宮城浩蔵 −国と地域をかける−」
  明治大学校友会山形県支部編 2002.10.刊


 あ  と  が  き

 
 宮城浩蔵といっても、山形県民の九十パーセント以上は知らないでしょう。母校明治大学の創設者にもかかわらず、山形県の明治大学卒業者でも、昨年天童市旧東村山郡役所資料館で記念展示会が行なわれるまでは、その名前すら聞いたことがないばかりでなく、母校の創設者が山形県の出身ということに対しても全く関心がない人もかなりいたのではないかと思います。
 今年二月、明治大学校友会山形県支部で胸像建立記念に宮城浩蔵についての本を作ることになり、最終的に、原稿作成・レイアウトは長岡壽一・後藤卓也の2人で全部つくるということになりました。宮城浩蔵が没してから約百十年、宮城浩蔵だけの名を冠した伝記や、その生涯を記した書物が刊行されたことは一度もありませんでした。編集者二人とも最初は十月十二日刊行予定日までのわずか八ヶ月でどのようにするか正直自信がありませんでした。そして、二人で片っ端から宮城浩蔵について書いてある文献等調べ始めましたのはそれからです。いろいろな文献等を調べるにつけて、宮城浩蔵の生涯・業績の凄さと、わずか40歳で没したことに対する残念さが強く感じられるようになりました。   
 本の制作を企画している途上で、昨年天童市立旧東村山郡役所資料館で開催された「宮城浩蔵・田中 稔二人展」の目録を見ました。同目録は、宮城浩蔵関連だけでもB5判で六十ページ近いもので、山形・天童の先生方による本格的な伝記・研究書でした。そして、展示会目録という性格上もう絶版となっていて、再版する予定もないものでした。あまりに内容的に素晴らしい研究書であったため、絶版にするには惜しく、今回の胸像建立記念として、単行本掲載化を天童市立旧東村山郡役所資料館湯村章男館長に相談いたしました。湯村館長には、各執筆された先生方からの記念出版に対するご承諾・天童市立旧東村山郡役所資料館所蔵資料の掲載についての資料貸出し等等、感謝しきれないくらいにお世話になりました。おそらく、湯村館長の熱いご協力がなければ、今回の宮城浩蔵伝の制作は幻に終わったと思います。また、これに加え、明治大学鈴木秀幸先生が昨年十一月十七日に、天童市市民講座において「宮城浩蔵と山形の人々」という題名で講演されたテープを本にすることにし、鈴木先生からは、単行本化についてのご承諾と、ご多忙中の文章校正をいただきました。鈴木先生の木村 礎先生直伝の現場主義的宮城浩蔵についての実地研究に対しては、感謝し足りないものがあります。本当にありがとうございました。
 制作しているうちに、次第次第に明治大学校歌の、特に二番の歌詞が大好きになりました。校歌はそれこそ学生時代から何百回も歌っています。二番の歌詞は一番のような「おお明治」が歌詞に入っているわけでなく、三番のように華やかな内容でもないため、今までは地味な感じを受けていました。しかし、二番の歌詞こそが、宮城浩蔵の生涯そのものではないでしょうか。宮城浩蔵の決して長いとはいえない生涯は、明治初期の「権利自由の揺籃」期に、「独立自治の旗かざし」「高き理想の道を行く」「強き光に輝」いた生涯だったのではないでしょうか。作詞者児玉花外と、宮城浩蔵とに接点があったかはわかりませんが、宮城浩蔵没後何十年後かに作られた校歌こそが、宮城浩蔵を象徴する、明治大学の建学精神そのものなのではという実感を改めて感じました。
 昨年からようやく、天童市や明治大学を中心として、再評価運動がおこってきつつある宮城浩蔵の業績について、明治大学・山形県・天童市関係者だけでなく、少しでも多くの人に知っていただきたいと思いますし、読者からは本県の宮城浩蔵研究に対して、忌憚のないご指導・ご助言をいただければ幸いですし、宮城浩蔵に関する資料をお持ちの方がいらっしゃれば、明治大学校友会山形県支部あてに、ご貸与もしくは、ご提供いただければより幸いです。
  平成十四年十月十二日
       宮城浩蔵伝 制作責任者  長 岡 壽 一
                    後 藤 卓 也


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