長岡弁護士講演録
1 浦島太郎を読む 2 歌舞伎、オペラを観る 3 原発、放射能、オリンピック 4 モンテディオ山形の経営 5 憲法改正と生活 6 1票の価値 7 TPP、FTA 8 見方の訓練 9 自己決定の知恵 10 質疑---知識と知恵など 0 月光仮面は正義の「味方」 毎月例会を行なっていますが、今回は発表者の人選と事務局からの依頼が遅れたようですので、私が担当させていただきます。 「正義」とは何か。それは、社会において多様な人々が共に生きるための調整システム(仕組み)の理想的なあり方である、といえるでしょう。 世の中にいろんな人間が営む中での出来事があるわけで、その本質を観る、本質は何かということを考えて探ろうとすることです。その本質の大部分は、目には見えません。ですから見えないものをどうやって見るのかということ、それを「直観力」といいます。 「チョッカン」というのは、感じるのじゃなくて、観る、観察の観です。観察してそれで直ちに、隠された問題がある、何が問題なのか、誰も言ってないけども、その背後にあるいはどこかに問題があって、その本質を気付かないと大変なことになってしまう、ということに気づくことです。世の中には、そんなことがたくさんあるわけです。 そういう事例をもとに、私が最近、皆さんも同じように経験された事例の中で、こんな見方をしています、ということをお話をさせていただく、それが「私の見方」として一つの参考になればありがたいということです。 もちろん、気づくだけではなく、そのあとの対策を取れるかも重要な課題です。 1 浦島太郎を読む 美容室での会話 (2013年)8月に美容室に行ったんですが、その時に順番を待っているときに、すでに終わった若い女性が、若いと言っても12〜3歳の中学生でしたけども、私のテーブルの前に座って、お母さんが終わるのを待ってるところだったようです。 私と2人だけだったので、話しかけようと思って、何の話をすれば、この女性は興味を持って応じてくれるだろうか、と考えて、私も彼女も知っているような話ということで、話をかけたんです。 それは、「浦島太郎っていう物語、知ってますか?」という話でした。当然、知ってます、ですよね。皆、知ってます。浦島太郎の物語はみんなが知っているんだけれども、その物語の内容に対する疑問というものを、あまり考えないですよね。 なぜ「浦島太郎」なのかというと、(2013年)9月23日に、長唄発表の公演がありまして、それで私が「浦島」という長唄を、中央公民館(アズ七日町)のホールで唄う機会があったんです。浦島の物語を長唄として唄うということで、浦島の物語とは何だったのだろうかということを、いくつかの本を見たりして勉強したことがあったのです。 竜宮城は海の中? それで、亀と乙姫が出てきますね。乙姫と亀との関係は何なんだろうか? ということの質問をした。 竜宮城はどこにあるんだろうか? 今の物語では、海の中、つまり水中にあるわけです。そんなところに人間が入っていったら、溺れて死んでしまうでしょう、という疑問は当然出てくるわけです。その疑問をちゃんと解消しないで、小学校の国語の時間とかで、お話をして終わらせてしまっているわけです。はたして本当に水の中にあるんだろうか、という疑問は消えません。皆持ってます。 それから、もともとの物語、おとぎ話というのは、その多くには、教訓めいたものが裏にあるわけです。それでは、何を教訓にしているんだろうか? 浦島太郎がやったことは、亀を助けてその亀から、その亀なのか別の亀なのかは別にしても、竜宮城に案内されて、そこで遊びほうけて帰ってきたらお爺さんになっちゃた、とということです。 そうすると亀を助けると何か人生が無駄になってしまうのかなと、最後はさみしい一生の終わり方をする、ということだったら、何の教訓でもないわけです。はたしてそんな終わり方でいいのかな、という疑問もあります。 何年経ったの? それから、今の話では、玉手箱から白い煙が出て、そこでお爺さんになってしまう、ということで話が終わっています。その浦島太郎が竜宮城に行ってから帰ってくるまで何年のブランクが、地上の時間からすればどれくらい時間が経ったんだろうか? 何年間竜宮城にいたんだろうか? ということも、大きな疑問です。 帰ってきた時にはそこには誰も知っている人がいなくなっていた、というのが物語の結末でしょ。ということは、20歳くらいの人が70歳になって50年間のブランクがあったって、知っている人がまったくいなくなってるなんてことはないですね。だからそんなもんじゃなく、もっともっと大きな長いブランクがあったんじゃないかと考えられます。ここも大きな疑問です。 それから、お爺さんになったというけれども、本当にお爺さんになったんだろうか? そんな簡単にお爺さんになるものなのか、という疑問もあります。 もとの物語は? そもそもこれはどこで作られた話なのか、作り話なのか現実のことなのか、という問題もあります。 そんなことを、浦島太郎の伝説の話を読み解いて調べていくと、そのすべてについて、もとがあるんですね。これは「万葉集」とか「風土記」とか「日本書紀」とか、そういうところに、ちゃんと実話として出てきてるんです。その実話の中では、海の中になんか潜っていきません。 舟に乗って行くんです。その舟も、若い女性が一人で舟に乗って海岸に流れ着いた。それで私の故郷に送り届けてくださいと頼まれて、浦島が舟を漕いで、10日間くらい漕ぎ続けてその陸地に着いた。そこで楽しいひと時を過ごしてくる。 ですから、今我々が聞いてるような、知っているような浦島伝説とはまったく違う内容であって、それだったら現実にありうるだろうな、というような中身なんです。 場所も特定されていて、今の京都府の一番北のほう、丹後地方というんですか、そこの海辺なんですよ。そこから日本海へ向けてずっと大陸のほうに行けば、大陸の中に素晴らしい場所、蓬莱の国がある。だから、中国大陸に行くというのが、物語の本質の背景にあるんじゃないのかなと思います。 鶴は千年、亀は万年? その原型が、江戸時代あたりに、現在のような内容に変えられてしまったということのようです。そして、各地においていろんな話の筋のヴァリエーションができたようです。 帰ってくるまで何年経ったのかということについては、もとの昔の物語だと300年とか700年くらいの期間を経ているということで、物語が構成されています。その結果、お爺さんになんかなるわけないですよね。700年も経ったら、生きているはずがないわけですから。 それでは、浦島は何になったのかというと、鶴になった、というんですね。鶴は千年、亀は万年でしょ、だから700年経ってもまだ300年、鶴は生きられるわけなんです、計算上ね。もともとは、そういう物語の中身があるんです。 この浦島太郎に限らず、いろんな日本も外国も伝説とかあるいはおとぎ話とか子ども向けの話というのは、相当奥が深い内実を含んでいるということがいえると思います。それを疑問をもって読み解くことによって、「あ、こんな背景や歴史があるんだ、本質もあるんだ」ということが解るという一つの例です。 理解する素直な頭 私は、その12〜3歳の女性と話して、とっても感心したんです、その人の賢さに。 私がこういう疑問を、普通は考えないようなことを投げかけて、いろいろ言ったことに対して、すべて理解して受け入れて、「鶴になったっていうのが原話なんだよ」と話したら、「それは宗教的な意味を持っていて、つまり鶴になるという祝いの意味なのですね」と言っていました。 鶴亀というのは、おめでたい話の中に出てくるわけでしょ。だからそういうことで話が終わる、おめでたい話として終わる。700年も別の国に行って、蓬莱の国に行って、遊んできて楽しい生活を送ってきて、700年後に鶴になってさらに生きられたら、これくらいおめでたいことはないわけですよ。そういうのが浦島伝説の一つの読み方としてあるんです。 2 歌舞伎、オペラを観る 演劇の鑑賞 先ほどの話題は伝説とか物語の見方ですけども、次の話題として、今度は演劇とか、ひろく演劇のうちでも、たとえば昔からのものであれば、日本でいえば歌舞伎、能とかですね、そういう伝統的な演劇がありますし、それからヨーロッパではオペラ、それからバレエなどもありますね。 そういうものをどのように鑑賞するのかという視点、これも人によって、趣味の世界ですから、何が正しいと限定するわけではなく、いろんな見方があるということのお話に移ります。 歌舞伎と声援 まず一つは、歌舞伎なんか見てると、場内から声がかかります。歌舞伎役者の場合には、名代クラスの有名な役者の場合は、「○○屋」という、例えば「播磨屋」とか「成田屋」とか、「音羽屋」、「大和屋」など、いろんな屋号があるわけです。その名前を言うんです。たとえば、市川團十郎は成田屋ですか。大向うから声がかかるんです。 大向うというのは、舞台からみて一番遠いところ、観客席の一番遠いところ、歌舞伎座でいえば、新しくなった歌舞伎座でも前の歌舞伎座でも構造はほとんど同じなんですけれども、3階席の一番奥、立見席を4階席と言っているけれども、3階席がずっと続いてるので、3階席の一番奥あたりが、大向うと言われるところですね。そこから声がかかるんです。 私は、そうとう以前から歌舞伎座や新橋演舞場などで歌舞伎を見ることが多いんですけども、せっかく1日かけて山形から出ていくのですから、できるだけ前の席で見ようと思って、1階席の花道のわきで正面の舞台に近いところの席をとろうとするわけです。 そういう所にいると、どこからその掛け声が聞こえてくるのか、誰が言ってるのか、遠く後ろのほうからですので、まったく分からないのです。 2010.4.最後の歌舞伎座 ところが、前の歌舞伎座が取り壊されるので、平成22(2010)年4月で最後の公演だということで、その年の1月から4月まで全部観たんです。そうすると、最後の人気が集まって、なかなか1階席なんか取れない。2階席が多く、それから4月25日が最後でしたけれども、そのときは3階席の一番後ろになってしまいました。 そこで私は思わぬ発見をしたわけです。そこの3階席にいる人たちが声をかけているんです。3階席は、安いわけですよ。例えばせいぜい5千円、もっと安い場合だと3〜4千円くらいで入れるわけですね。1階席だと1万8千円、そうすると同じ金額で3千円だと6回も行けるわけですね。 まして山形から1日かけて列車の運賃も2万いくら出してというのじゃなくて、東京の劇場の近くの人は、簡単に来られるわけですから、そういう人は、1か月のうちだいたい25日間公演しますけども、その中で何回も来て観てるわけです。ですから筋も、誰がここでどんなセリフを言うのかとかいうのも大体分かってる。 そこで瞬間、セリフの空白の部分を見定めて、そこで「成田屋」とか。「なりたや」と間延びして聞こえるようじゃだめなんで、縮めて勢いよく通る声をかけるんですね。 見えない花道を観る その声掛けをする人たちのグループみたいなのがあって、聞くところによると3つのグループがあるそうで、そういうものに認定された人じゃないと、うかつに声をかけられては困るということになるのでしょうね。 それで3階席に行って、私が感心したのは、3階席はほとんど花道が見えないんです、正面の舞台はよく見えるんですけども、上から見下ろすかたちで見えますけども、花道はほとんど見えない。だけどもその花道から役者が出てくるわけです。 その主な役者が花道から出てきたときに、花道に出始めたところで声をかけるわけです。それをまったく見えないのに、見えない3階席からそれをやるんです。これには感心しましたね。そしてびっくりしました。 そういう役者に対して声援をする、支援をする、後援するというようなかたちの演劇の見方が一つあるわけですね。 オペラ それから、たとえば同じようなことが、オペラなどでは「ブラボー」とか言って、拍手したり立ち上がってまで頭の上に手をのばして拍手したりしますね。有名な歌が終わった時に、物語の途中なんだけれども、そこで大きな拍手をして、拍手がいっぱい、みんながそうするもんだから、演劇の筋をそこで休まざるをえない。 そして拍手が少し沈んだところでまた次の場面に移っていくというようなこともよくあるわけです、オペラの場合には。 そういうのは、オペラの筋で、例えばそこで悲しみに打ちひしがれて、大体オペラは男女関係ですから、そういう場面で悲しみのどん底を歌ったものだとしても、いいアリア、1人で歌うものをアリアというようですけども、それに対して拍手したりブラボーとか言うわけですね。 そんなのは馬鹿げてるわけですよ、筋を見るという観点からしたら。そこはもう心が沈まなければならないわけですよ、本当は。だけどもその歌が素晴らしいもんだから、大きな拍手でその歌手を讃えてしまうということです。 テーマか役者か? つまり、今お話ししたのは、役者に対する支援、役者を見に行く、聴きに行くという立場と、それからオペラであれ、歌舞伎であれ、筋を見てそのテーマから自分が教訓を受けるという見方と、両方あるということです。 私は、観劇の中で感激する経験をたくさん持ってきたんですけれども、その中で筋、テーマ、その原作からの魅力というものを中心に置いて観てきました。そして、その中で見る人に、つまり私自身に、何を問いかけているんだろうかということを観ようとしてきました。 そういう視点からだと、歌舞伎であればだいたい親子の情とか、あるいは主従の、封建時代のものが多いですから、そういうものをテーマにしている。オペラだったら、男女関係をテーマにしてるというのが多くあって、自分の人生との関係で、あるいは自分の職業などとの関係で捉えて、そして感動を味わいたいというようなことで観てきたんです。 観劇経験の違い けれども、歌舞伎でも同じような演目を2回3回と観てると、テーマと筋は同じでも演じる人が違うわけですね。2年前と違う人が演じる、そうするとやっぱり演じる人の表現力というか、能力、技能、その人の役者としての評価というのものがやっぱり違うんですね。 そうするとやはり何回も観てると、筋はもう分かってるわけだから、観るたびに感激するなんてことはありえないわけで、何回も観てると役者のほうに重点が移ってくるのかなと。 だからどっちの見方が正しいわけじゃなくって、その経験によって、テーマ性を重視するか、役者を重視するかというのがあるんだなと思うようになりました。 バレエ そのような中で、バレエで「白鳥の湖」というのがあります。だれでも知ってるバレエだと思うんですけども。その白鳥の湖を観て、ほぼ2時間なんですね、間に休憩があって2時間くらい。 それで、私は数年前にそれを観て、終わった時に愕然とショックを受けたんです、そのテーマ性、私に問いかけられたテーマというものとの関係で。それは、一言でいうと、「あなたは何のために生きて、何をしようとしているんですか」ということを問いかけているバレエだと私には思えたのです、それを観てですね。 バレエでは、一言も喋らないわけです。音楽とそれから踊りだけがずっと2時間続くという内容ですね。そうすると逆に2時間何も意味のある言葉としてのメッセージが聞こえないわけですから、それを観ながらオーケストラを聞きながら、自分で考えるわけです。 考えて考えて考え抜いて、それが直接自分に問いかけられているものとして自分なりに理解して感動するということだと思います。 舞台芸術 それから歌舞伎にしろオペラにしろ、舞台とか衣装とかそういうものの美しさ、華々しさというのも一つの見どころではあります。 つまり、劇場というのはいわば「ハレ」、「ケ」ではなく「ハレ」、日常ではなく非日常的な特殊な場面、人生の中でも特殊な場面というのが、その空間と時間です。オペラの場合だと3時間くらい、長いのだと4時間くらい、その空間のなかにいて見聞きするという経験をするわけです。 そんなことが演劇、観劇っていうことについてのちょっとした感想です。 3 原発、放射能、オリンピック オリンピックの裏に それからガラッと話題が変わりまして、次は原発と放射能、というのは、今もって問題が残っているわけですし、今からも新しい問題が出てくる危険性も当然あるということです。 そういう中で、東京にオリンピックが招致されることに決まった。その運動、招致運動を、国と東京都が中心になってやったわけですけれども、その運動の費用というのは、正確には予算化されていない。裏金がどのくらいなのか分からないけれども、我々の予測予想できる範囲を超える金額が使われていることは事実ですよね。まさに湯水のように使われなければ、東京オリンピックというのは招致に成功しなかっただろうと思います。 じゃあそのお金というのは誰のものなのかといったら、我々のものですね。つまり国民から集めた税金を、再配分をするという過程が政治なわけですけれども、その政治の中で東京オリンピックをやるんだと、そのためには最初にお金を呼水のように出さなければならない。 そして、これから数年間にわたって建設その他の整備をしなければならない。そのためにもお金を使うということになれば、これからは東京に、東京一極集中のお金の使われ方がさらにひどくなっていく。 つまり、地方から集めたお金を東京に投入するというのが、東京オリンピックの本質ですね。ですから、地方で、山形県にいる我々が東京オリンピックが成就してよかった、なんていうような単純な考え方をしていると、ますます地方は貧乏になっていくのではないかと思うわけです。 原発処理と税金 原発問題というのは、東京電力がやっているなかで事故が発生して現在に至ったということですが、結局原発の事故の収束とかあるいは対策、これからの対策を含めて、ここにも限りなく無限大の金銭、税金が投入されざるをえないという状況があります。 そういう中で、東京電力だけに限らず日本の、9つですか、電力会社、沖縄電力を除いて全部同じような大変困難な場面にあると言われています。しかし、どこも倒産する気配はないわけで、お金が足りないときには電気料金を上げればいい、それで全部の会社が上げてるわけですね。 東北電力も10%近く上げてるわけです。そういうことをするのには、独占企業の電力会社が勝手に上げることはできませんので、結局政府と協議して政府の了解を受けて、決定を受けて、認可を受けて上げているということです。 共通する背景 つまり簡単に言うと、原発とか放射能とか事故はあったんだけれども、その中ですべて、東京オリンピックの関係も同じような見方ができると思うんですけども、結局は利権なんですね。一部の人の利権、それがどうやって実現されているのかというのが、原発問題・放射能問題と同じように、東京オリンピックも同じ視点から言えるのでないか。 そして、その利権というものは、結局、情報が隠されるということです。本当の情報を国民みんなに分かられたら、利権というのは成り立たないわけです。そしてその隠されている情報の中で、情報を独占する人と、そこからお金を多く、人よりも多く極めて多くもらえる、利益を上げられるという企業とかその仲間がいる。簡単にいうとその人たちの仲間の利権なんですね。 「お友達」? 仲間というのは、結局親しい仲間、お友達ですね。だから、お友達が、政治も問題解決も行なっているというか、その人たちのために、自分たちのために行なわれているというのが現実の政治の一面であると言えようかと思います。 その結果、福島とか東北とかいうのは、西の方からみると最近日本に編入された人たちなんでしょ、と、こういう見方ですから、東北地方が放射能で汚染されるとか、それから地震と津波で壊されたままになってるなんて、あんまり関係ないんですね、彼らから見るとね。今の総理大臣も山口県でしょ。 だから東北なんて関係ないんだね。そういうので東北の人たちは、お友達になれないということだと思いますね、東京とその西側の人たちから見ると。 4 モンテディオ山形の経営 サッカーチームの運営 つぎに、もう少し地元に目を向けて、今年(2013年)のニュースの中から話題を出しましょう。「モンテディオ山形」というプロのサッカーチームがあります。その運営をしているのが社団法人です。 その社団法人による運営をやめてしまって、今度は株式会社がその運営主体になっていくというようなことが報じられました。これは何なのかという問題です。 つまり、社団法人ではお金も集められないし、商売が下手だからという理由が一つの大義名分として言われますけれども、じゃあ株式会社にすればそれが上手くいくのかというと、何の保証もないでしょう。 そして、ここでの大きな疑問は、私は新聞情報しか知らないのですが、新聞によると、400万とか500万円の資本金(その後調べたところ、設立時の資本金は980万円)で、新たに会社をつくったというんです。その会社がモンテディオの事業を受け入れてしまう、自分のものにしちゃうわけです。 じゃあモンテディオ山形という企業がどれだけの価値があるのかということですが、数十億から百億くらいの価値はあると思います、企業として捉えれば。それがただで、社団法人から株式会社に移されてしまうわけです、その事業そのものが。対価を1円も出さないで。社団法人は、その事業部門を廃止して、モンテディオの運営から撤退するだけです。 そうすると、ある見方からは、500万円出した少数の株主が、事業の全部を、その百億円の企業を取ってしまうわけです。そんなことが、このモンテディオが社団法人から株式会社に移行するということの本質的な問題です。(調べによると、社団法人の理事長と新会社の社長は同じ人です。これも、公平と公正の視点から、大いに疑問です。) お友達が利権を? この500万出した人は誰なのかというと、ここでもまた、「お友達」ですよ。ごく少数のお友達。それがお金を出している。500万だったら、ここの会場で提案してお話をしてもすぐに集まりますよ、明日にでも。それくらいの金額を持ち寄って。 数人のお友達が集まって会社をつくって、そして株主になって、百億円くらいの企業価値のものをただで貰ってしまう。そして、「株式会社が運営することになったから、これからのモンテディオはお金も出るし、強くなるぞ!」と言っている。県民の多くの人たちは、そういう部分しか見てない、あるいは、見せられていないわけです。 だけどもチームの実体はどこも変わらないわけだから、そんな強くなる保証なんて何もないし、逆に一部のお友達だけがやるということは、別の人たちからすると、「あそこのグループだけがうまい汁を吸ってるじゃないか」と不満を持つでしょう。そうすると、自然の成り行きとして、俺たちはモンテディオに関わりたくない、ということになっていくでしょうね。 輪が狭くなる? 現在非営利の社団法人として色のついてない、誰でも入れますよ、誰でも支援できますよというシステムが崩れてしまって、一部のお友達が自分の利益のためにやってるんだから我々は関知しないよ、勝手にやったらいいでしょ、ということになってしまうおそれがある。 地元の自治体や、山形県とか市とか、そういうものがみんなで一緒に支援していきましょうと言っても、人は動かない。特に企業経営者、その仲間に入れなかった企業経営者は、一線を画するだろうと思われます。その中で、県や市が、不足分の補助金をどんどん出さざるをえないという体質は変わらないと思います。 そうなると結局、社団法人に補助金を出すのと、お友達が作った株式会社に補助金を出すのと、果たして税金を納める我々からしたらどちらが納得がいくのか、ということについてよく考えなければならないと思うのです。 芸工大と同じ問題 ほぼ同じ構造が、2011年に現実化した東北芸術工科大学が京都市の私企業に無償で譲渡(合併)されようとしたという問題です。芸工大の企業価値は、ざっと考えて200億から300億くらいある。それがただで、吸収合併ですから、ただで京都の企業に移る。 そこで誰が利益を受けるのか? やっぱりここもお友達ですね。それは芸工大を運営している、そこに関わっている理事者としてのお友達。そのごく一部の人しか利益がないわけです。それが200億円という税金をかけた、県民市民によって作られた大学が、ただでほかの人のものになってしまう危機というのが現実にあったわけです。 同じパターンの繰り返し 芸工大と同じようなことが、今度は社団法人から株式会社になるというモンテディオについて、県内の中ではあるけども、同じ構造でしょ。だから同じ基本構造を含む問題というのは、いつも形を変えて繰り返されて出てくるわけです。 つまり、お友達だけが、一部の人だけが、多くの人から集めた税金を自分の手に入れることができるというシステム。これが一つの政治過程。政治というのは、別に国とか地方自治体だけじゃなくて、こんなふうに企業の運営の中での政治過程というものがあるということです。 同じようなことは、例えば山形県が中国に出先の機関を作りましたね。そして県の職員を2人ほど常駐させて、そして地元からも人を雇って事務所として運営してるわけですけれども、極寒の地なわけですよ。冬は零下20度以下になって、活動なんてとてもできないような、誰もそんなところに行きたくないようなところに作った。 そこにも我々の税金が多く投入され続けているわけです。なぜそこにつくったのかということを考えれば、やっぱりお友達の背景が見えてくるわけです。 5 憲法改正と生活 9条と18条 今度はもう少し広く大きな問題として、憲法改正の課題があります。憲法改正は昔から、昔からというのは、今の憲法が作られた昭和22(1947)年の当時からすでに、一部の思想と勢力において、次の課題が憲法改正だと叫ばれていたわけです。それが、今、その歴史的課題が現実化しそうになってます。 憲法9条を改正する、特に憲法9条2項を改正して、戦力を持たないというところを、戦力を持っていいんだというように改正するというのが、最大の眼目ですね。 ここだけ見ると、何か国を超えたようなそういう大きな問題であって、今さら自衛隊を戦力じゃないというのと自衛隊を戦力だというのと、どっちにしたって同じでしょうと、だったら憲法改正したって何も変わらないんじゃないの、というふうに見えますね。 だから憲法改正について、最も議論のあった9条の改正についても、あまり抵抗がなくなってきているわけです。 しかし、自民党の改正案をよく見ると、憲法18条を廃止するとされているのです。18条を削除してしまう。18条は何かというと、奴隷的拘束からの自由、つまりそういうことをされないという保障ですね。それから、意に反する、自分が自分の自由意思に反する苦役を与えられないというか、苦役をさせられない保障、そういうのが18条です。 「軍隊」の名前だけ? ここで、憲法の9条2項と18条を削除するということの本質は何なのかということ。そこが分かるか分からないかによって、大きな違い、「あのときに…」ということで、10年経ってから初めて判るわけです。そこで反省しても遅いわけです。 それは徴兵制ということです。徴兵制を取るということです。9条2項で「軍隊を置くんだ、置いてもいいんだ」という。今は「自衛隊」という名前を、「軍隊」と変えればいいだけ。陸軍、海軍、空軍と名前を変えるだけですね。自衛隊を軍隊に名前を変えるだけ。 そのように名前を変えられないのは、9条2項があるから。9条2項がなくなったら、自衛隊は軍隊ですよ。でも名前が変わるだけですから、あまり大げさに考えないでくださいね、というのが改正論者です。 徴兵制も? そして、ここが大事なのですが、18条がなくなったら、徴兵ですよ。「18歳から25歳までの間に必ず男女を問わず1年間は兵役に就かなければなりません」という制度が創られるわけです。これはもう明らかにそうなるであろうということは判るわけです。 18歳ということに関連して、選挙権と成人年齢を18歳に引き下げようとしています。これもまた、徴兵との相関関係があるというべきでしょう。20歳からでは、思想教育上も遅すぎる、ということなのでしょう。 そこまで憲法改正という実体、実質的な中身というものを読み解いて、本質を観ることができるだろうかということが大切なのです。憲法を改正してもいいんじゃないの、とかいうことを、軽い気持ちで、表面だけ見て、部分的な説明だけを聞いて、賛意を表するというのは、また本質が見失われているんじゃないかということです。 96条 今お話しした本質というのは、実体的な中身のことですけども、さらに巧妙に憲法改正が言われてるのは、「96条」を改正するということです。 96条は、実体ではなくて形式、手続きを定めています。つまり、憲法を改正するためには、衆参両方で3分の2以上の賛成による国会の発議が必要だ、と定めています。 それを、2分の1、過半数にしようというのが、96条の先行的な改正、9条などの実体より先に行なってしまおうとする改正問題です。 それが実現できれば、憲法を改正したという実績にもなる、そして次の実体的な憲法改正をしやすくなるということも、96条改正によってでてきる。じゃあ今度は中身、本当の大事なところで9条2項も18条も、というようなところに移っていくのが、一つの流れ、道筋の中に見えているわけです。 内閣法制局 それから、もっともっと危険なのは、今だって自衛隊は憲法学者であれは憲法違反だって言っている。学者はみんなそう言っているわけです。だけども現実に自衛隊があるわけですね。現実にあるんだったらそれを否定するわけにはいかないということで、今度(2013年)、安倍さん、総理大臣は、内閣法制局の長官を代えました。 内閣法制局(長官)というのは、内閣が法律の解釈とか憲法の解釈とかを誤らないように、正しく憲法、法律そして行政という形で行なえるようにということで、その政策場面できちんと指導する、羅針盤的な役割を持つ大変重要な部署なんです。 そこで今までは、海外に派兵するといっても憲法に違反するんだ、9条に違反するんだ、だからダメなんだ、という政府としての見解を統一してきたわけです。どの政権かにかかわらず、そこをちゃんと指導して、一つの日本国の筋としてそれを確保してきたのが、内閣法制局という部署です。 今度その部署の長官を交代させて、そこでの法律解釈を、あるいは憲法解釈を変えてしまえば、憲法改正をしなくても、今のままでも外国に軍隊を派遣することも許されるんだと、外国に行ってアメリカと一緒になってイラクを攻撃してもいいし、どんな戦闘状態や戦争に参加してもいいんだ、というような解釈に変更してしまおうという。 憲法改正という大問題の場面に至る前に、事実上政治の力で変えられしまうおそれがあるという問題です。 6 1票の価値 2012.12.の総選挙 それから、憲法については、最近、この1年くらいの間に、選挙、総選挙が、つまり衆議院議員の選挙を総選挙といいますけれども、それが去年の2012年の12月に行なわれたんですね。そのときの選挙は無効だという、つまり1票の格差が大きすぎるような内容で行なわれた選挙は無効だというので、十幾つの訴訟が起こされました。全国のほとんどの高等裁判所に訴状が提出されました。高等裁判所が第1審ですので。 そして今までに高等裁判所の大部分がこれは憲法違反だとか、違憲状態だとか、それからなかには選挙無効だということまで踏み込んで判決をしたものまで出てきました。それらが全部まとめて最高裁に上告されているわけです。今最高裁が審理をしており、どんな判決をするのかと注目されています。 2013.7.の通常選挙 それからさらに、今年の7月に行なわれた参議院の選挙、通常選挙といいますけども、3年ごとに任期満了となる議員で、全体の半数が改選されるということですが、これも高等裁判に、全国ほとんど全部のところに訴訟が出されています。 従来は、そんな一票の格差なんていったって現実に全国一斉に選挙をやってしまったものを無効にするわけにはいかないだろう、というのが常識だったわけですね。 それで最高裁判所も、選挙を無効にすることは国会議員の地位をなくしてしまうわけですから、慎重に判断してきた。国会議員の地位をなくしてしまったら、どういう問題になるのか。たとえば、7月の参議院と昨年12月の衆議院の選挙について、両方全部無効だって言ったら、残るのは参議院の改選されない半数しかいなくなってしまうわけです。 裁判所によってそんな判決ををされたら、日本国が機能しなくなってしまうわけでしょ。そのような考え方から、これは高度な政治的課題であるから、最高裁判所が、つまり司法が、そこまで踏み込んで判決することはできない、という考え方を以前から示してきたわけです。 一部無効か判断回避か だけども、無効になるのは、選挙の全部を無効にするわけじゃなくて、現実に訴えられた選挙区だけなんです、よくよく考えてみれば。だから例えば50の選挙区が無効であると、小選挙区だけですから、そうすると50人の衆議院議員がいなくなったとしても、国会の機能が失われるわけではないですね。だから、選挙無効としたほうが、かえって正義に則する、正義に合うのではないかという考え方もできます。 それらを主張し続けて運動を展開しているのが、原告代理人になっているほんの数人の弁護士たちです。私は、彼らについてとても偉いなと、本当に心からそう思って尊敬します。自分たちのお金をつぎ込んで、新聞の全国版に何十回も全面広告してですね、1票の格差の意味はこういうものなんだと啓蒙しています。} 昔は、投票価値が2倍、3倍、5倍とか開いている、それじゃおかしいでしょうと言っていた。それを、発想を逆転して、あなたの選挙権は0.5票しかないんだ、この選挙区の人は0.2票しかないんだ、これはおかしいでしょう、というような言い方をしているわけです。 だから、0.5票しかないんだったら、2人合わせて初めて1票にしかならないわけだから、そんな投票価値の格差というものは、それ自体絶対に許せないと。どの表現方法も中味は同じことなんだけども、言葉を変えて、見方を変えて言ったことによって、その運動が広がっていった。理解者が多くなった。 裁判官の国民審査 それは最高裁判所の国民審査にもプレッシャーをかけて、この人たちは憲法違反だという判決を出すべきであるにもかかわらず、現在の格差のある違憲状態の投票によって構成された衆議院と参議院をそのまま認めてしまっている。それは最高裁判所の裁判官が間違っているからなんだと主張する。 総選挙ごとに最高裁判所の国民審査をやりますから、×が過半数つけば、ただちに裁判官を解任されてしまうわけです。そういう政治運動までやったわけです。 そうするとこれもまた、最高裁判所の裁判官に対する事実上の大きなプレッシャーになっているわけです。ですから今度、総選挙と通常選挙について、いずれも最高裁判所が判断をせざるをえない場面になりつつあるわけで、その中で各裁判官がどんな判決をするのかということが注目されるのです。 逆転の発想と説得力 発想を変えて説得力を増すことと、それから自分のお金を使って、これだけ正義を実現しようということでやってる人たちが、ごく少数ながらいる。このごく少数のお友達関係というのは、何らかの利権をめざしているわけではないと思うのです。 自分たちはお金をつぎ込むだけで、裁判やるのも、弁護士である自分たちがまさに手弁当で、自分の信念と納得のために、あるいは国民のためにという理念で、正義を実現するために、自分たちが費用も時間も全部を出しあってやっているわけですから。 ここでもお友達が集まってやっているんだけども、その仲間が何らかの金銭的な利益、その他の社会的な利益、有利な立場を得るというわけではない。それだけに、私はその人を尊敬するということなのです。 7 TPP、FTA (注) TPP(環太平洋戦略的経済連携協定、Trans-Pacific Strategic Economic Partnership AgreementまたはTrans-Pacific Partnership) ISD(またはISDS)条項(投資家が国家を訴えることができる投資家対国家の紛争解決制度、Investor-State Dispute Settlemement) TPP参加国----アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージランド、メキシコ、ぺルー、チリ、シンガポール、ベトナム、マレーシア、ブルネイ、日本(順不同) FTA(自由貿易協定、Free Trade Agreement) 法の体系−−憲法秩序 憲法体系、一番上に国の基本法である憲法があって、その下に法律があって、そして法律の下に政令とか条例とかそういう具体的に国民に適用される場面の法規が作られていく、という憲法体系があるわけです。それをまるっきり変えてしまうというのが、今行なわれつつあるTPPの交渉なわけです。 TPP(環太平洋経済連携協定)というのは、2013年10月の時点で12か国くらいでしょうか、そこが、地理的に太平洋に面したような国々が一緒になって、関税を撤廃しようとか、自由貿易圏を作ろうというのが、TPPといわれるシステムです。だけども主に騒がれている関税なんていうものは、現実の影響としてはあまり関係ないですよ。関係ないというのは、それによって国が壊滅するなんてことはありえないという意味です。 ISD条項 それよりも国そのものが滅んでしまう構造で、TPPの中に含まれているのが、ISD条項(またはISDS条項ともいう。)ということなのです。 これは、例えば、日本の中で米を作る必要がある、だから国や地方自治体がその米作りの農家に補助金を出したり便宜を与えて保護する。 そうなると補助金を受け取っている日本の農業者がいる一方、アメリカで米を作っている人が補助金をもらっていないので、競争力の前提が平等でなくなってしまうわけです。片方は国から援助してもらってる、もう片方は自分の力だけで企業としてやっている。 そうするとアメリカの企業、たとえばカリフォルニア米をたくさん作っている企業が、こちらに輸出しようとして、日本に輸入を持ちかけたら、日本の米の価格が安い。それは何故かといったら、国から補助金をもらっているから安くできる。 それは自由な競争にならないということで、国に対して、補助金を出している国を相手に、損害賠償を求めて訴えるわけです。国を訴えるわけです、アメリカの企業が。つまり、自由競争を阻害しているから、補助金を出してはいけない。補助金を出しているから、今まで私たちアメリカの企業が貿易をしようと思ったけどできなかった。アメリカの企業の競争力が小さくなってしまった。売れなかったのは、あなたのせいだ、日本国のせいだと主張するわけです。 それで日本国を訴えるのです。損害賠償を請求する。アメリカ企業が現実に、TPPと同じような条約に基づいてやっている例がすでに幾つもあります。 企業が国を訴える そのようにして、アメリカ企業が日本の国や自治体を訴える。 どこに訴えて、誰が決めるのかというと、非公開の裁判所なんです。それは日本の国外に置かれる。それは誰が審理して、誰がどういう理由を付けて結論を出すのかは、秘密のなかで行なわれる。アメリカがやった裁判、その企業がやった裁判は、そのアメリカ企業側がほとんど全部勝っているんです、今まで。 現実にTPPというのは、今のところ12か国なんですけれど、FTAというものは、1対1の国家間で行なわれているシステムです。アメリカと韓国は、2012年からFTAの協定が発効しました。 その結果、現在の韓国は、経済的にはアメリカ企業の言うなりです。例えば、韓国の企業とかそういうものを援助しようと思って国が補助金を出すとか、あるいは補助金ではなくても、企業支援のための政策を行なうことがあります。 アメリカの企業は、それを見て、公平な競争を阻害する不公正施策であるから違法だというのです。韓国に対してその政策の撤回や修正を求めて圧力をかける。 山形県の施策にも 身近な例えとして、山形県といえば、お米の「つや姫」を山形県が作ったわけでしょ、新しい品種として開発して作った。それを山形県が我々の税金を使って公務員がちゃんと農家に教えて、そしておいしい米だよと宣伝までしてくれている。 そんなことをするのは、山形県がやっているのは、アメリカの米作り企業との関係からすれば、自由競争を阻害するものだと、当然そうなりますよ。だから山形県を訴えてくるだろうと思うのです。そして、訳の分からないうちに、何十億円払えと決定される。 そういうのがすでに、FTAの韓国で行なわれていて、韓国は、うかつに補助金も出せないし、国の民間企業に対する援助というのは、ほとんどできなくなっている。アメリカの顔色を見ながら、これは大丈夫でしょうかと、事前にアメリカの政府または企業側から了解を得ないといけないようなことになってしまっているということです。それがISDという条文が入ってるという意味ですね。 そうすると、結局、アメリカの企業が日本の国あるいは地方自治体を相手にして何も商品としてのモノを与えないでも損害賠償金だけ、莫大なお金を取っていけるという構造になるということです。 その結果、憲法体系が根本から壊されてしまうという状況になります。説明の仕方を変えれば、江戸末期の鎖国から開国に際しての不平等条約が、現代において再び行なわれようとしている、とでも言えるのではないでしょうか。 安保条約とTPP 日米安保条約というのがありますが、日米安保条約が法体系上どこに位置するのかというと、日本の憲法の上にあるんです。日米安保条約が違憲だと訴えた事件がありましたけれども、それには憲法判断をできない、と最高裁判所が判決している。だから、その結果、安保条約が日本国憲法の上に位置付けられているわけです。 TPPについても、日米安保条約と同じように、同じ場所に位置付けられる、憲法の上に。そうすると、アメリカと日本との関係では、どういう法秩序が、憲法体系ができあがるかというと、結局こういうことになります。 一番上には、アメリカの連邦(合衆国)憲法がある。州の憲法じゃなくて連邦の憲法です。 それから、アメリカの議会、上院と下院がある。特に上院のほうが、外交については力が強い。だから上院がある。 その下に、その議会がつくるアメリカの法律がある。 で、その下に、安保条約とTPPがある、位置付けられる。 そしてその下に、アメリカ大統領がいる。大統領というのは法律で雁字搦めにされちゃうわけだから、国と国の間の重要案件については、議会のほうがずっと強い権能を有しているのです。 その米国内では弱い大統領の下に、我が国の最高法規としての日本国憲法が置かれているわけです。 そして、日本国憲法の下に、日本の法律があって、我々国民がそれに従っているということです。 農協と経済界 こう見てくると、軍事的にはすでに日本国はアメリカから支配されているし、今度12か国のTPPあるいは日本とアメリカの1対1のFTA協定(条約)ができてしまうと、そこにおいて、同じように、経済的な収奪、日本の我々がいくら働いても、その富は全部アメリカに取られてしまう、という収奪の法体系ができあがる、という現実的な結果になります。 こういうこともまた、TPPになぜ農協が反対するのか、反対しているのは農協だけだろうとか、それから経済界では、多くの企業が賛成しているとか、そういうような現象面だけで考えてしまうと、我々のこれからの日本国で生きることの意味合いが大きく損われてくるのではないか、幸福実現のためにはどうにもならない状態に陥ってしまうのではないか、と思います。 昔から日本はアメリカ合衆国の51番目の州だ、なんて言われています。しかし、そうでないということが分かるでしょう。つまり、州になれるのだったらその方がずっといいんです。議会に議員を出せますし、人口的にその構成率を見ても、今の日本は、アメリカ国内に入っていけば、政治的に大きな力を実現できるでしょう。 しかしながら、アメリカ連邦法や大統領の下に我々が位置付けられているというのが、現在の安保条約とFTAやTPPの見えない本質的な問題だということです。 8 見方の訓練 経験→記憶→人格 いろんなお話をしてきましたけれども、結局、人間が生きていく中で、一人ひとりのものの考え方というのは、みんな違うわけです。その違うのは何故かといったら、一言でいうと、「人格」が違うから、なんですね。 人格とは何かというと、その人の記憶、「記憶の体系」その全体が人格です。さらに、人格を形成する、つまり記憶を作り上げるものは何なのかというと、それは「経験」であるわけです。 ですから、個々の人間は、現在までどんな経験をして生きてきたのかによって、その人の人格が作られているということです。 今お話ししたような、ものの見方ということで考えて分析していくと、その人がどんな生き方をしてきたのかによって、見方が違う。見える人もいれば、見えない人も、あるいは見ようとしない人も多い、ということがいえると思います。 見方を経験する 逆に言うと、その経験の中で、ものの見方で、経験の一つですから、それを生活の中で訓練していく、お稽古していく。こんなものをどう見るのかということを、日常的に訓練を続けていく。それによって、「直観力」、「チョッカン」のカンは観察の観ですね、を養う。 ものを見て、この氷水の入っているコップをさわって冷たいと感じるのは、それは直感、感じるということです。そうではなく、この水の中に放射能が入っているのかどうかということを、水の起源から、この水はどこから来たのだろうかというところまで考えながら、一瞬にしてこれは危ないとか疑問をもって判断することができるかどうかということが、直観力です。 そして、人間と人間の関係で営まれている社会の中で、それがはたして正義なのかどうか、例えば東京オリンピックが、それを行なうのが私たちにとって正義なのかどうかということを考えるということもまた一つの訓練だろうと思います。 束縛を解く 今、人生、その中の「経験」という視点からものを考えてみると、私たちを規定する要因というのはいくつもあるわけです。あらゆる経験をしようと思ってもできないし、あらゆる見方をしようと思ってもそれはできない。 何故かといったら、まず生まれた時代があります。それから地域がありますし、その生まれた家族とか、そこでの育ち方というのも、全部が規定要素であり、自分では自由にできないように規定(制約)されてしまっている。 そしてその中から、今現在の自分の一つの人格を形成しているというのであれば、少しずつその規定されている束縛から逃れて離れて、自由にものを考えられるような力を付けていくことが大切ではないかと思います。 日頃のお稽古 たとえば、こういう方法があります。毎日の新聞を見る。その新聞を見る場合、表紙から順に開いていって、興味のある記事を見つけたらそれを読む、というのが普通ですね。 それを変えて、それを開く前に、目を閉じて、今日の新聞にはどんな記事が書いてあるだろうかということを考えるわけです、5分10分と。それを考えてから開いてみて、自分の考えていたような記事が書いてあるかどうかということを、毎日これを訓練することによって、予測力というのが鍛えられて身に付きます。当たらなくてもいいんですよ、考えさえすれば、当たらなくてもいい。 これもバカバカしい話だけれども、最近ワインを毎日のように飲んでいて、前は違いも判らずに飲んでいたのですけれど、最近は、香りをかいで、色を見て、そして徐に口に入れて、これは何という品種で作られたワインなんだろうか、どこの国で作られたものなんだろうかとか、これをまず自分で5分10分考える、自分でじっくりと。 もちろんそんなものは当たらないですよ、知り合いのソムリエに聞いたら、私たちも当てられないと言っていましたから。当たらないけれども、それを考えることによって、ワインを通じてそのワインが作られた土壌とかそれを作っている人たちの営みというものをイメージする、ということもまた、一つの正義の見方に通じるのではないか、訓練する方法なのではないのか、と思っております。 9 自己決定の知恵 知識社会 今、私たちが生きているのは、「知識社会」といわれています。知識社会というのは、農業社会から出発すれば、工業社会、そしてまた情報社会、そしてその後にきた知識社会という位置づけなわけです。その中で、プロフェッショナル、専門職業者という立場で仕事をしたり生きたりしているというのが、今の私たちの現代における位置づけということです。 そうするなかで知識社会とは何なのかということを考えると、知識を大切にしなきゃならない、知識がある人が仕事ができたり優遇されたりするというふうに考えがちだけど、逆なんですね。知識社会というのは、皆が大部分の人が知識を持つ社会、あるいは、必要な情報を容易に得られる社会です。 専門相談の実態 だから弁護士に相談に来る前に、みんな自分の問題状況というのを知っている、調べて分かっている、そのうえで相談に来るのです。 じゃあ何を相談に来るのかというと、知識を聞きにくるわけじゃなくて、知恵を授かりに来るわけです。弁護士としての経験をもって、その法律の知識ではなくて知恵、このような悩みごとを持った今のあなたならば、こんな考え方をして歩むべき進むべき道が3つ選択肢としてありますよ、というような説明をして、それぞれの道筋の先に何があるのかということを具体的に判りやすく教えることができる。 それを聴いた人が自分でその人生の道を選択して決めていく、その知恵を聴きに来るのが、弁護士に対する相談の需要と実情だと思います。 プロフェッショナルの価値 弁護士も他の専門職業者も、多くの分野で職業人の数が増えて、その反面において全体としての需要が少なくなりつつあるという時代です。ですから、その中で、私たちが、プロフェッショナルとして社会から有用な人だ、あの人は話をきけば納得できる指導をしてくれる、という意味で尊敬される人になることが大事だと思っています。 そのために今日お話ししたようなことも、いろんな素材は日常的になんぼでも周りにあるわけですから、その素材を自分なりに分析して、見えないところを、その本質を見抜いていく。はたしてこれでいいんだろうかという、自分の自己決定をして、社会に対しても人に対しても発信をする、意思を伝えていくというのが、どんな職業かにかかわらず、大切なのではないかと思っています。 そんなことで一通りの私のお話を終わらさせていただきます。どうもご清聴ありがとうございます。 10 質疑---知識と知恵など 知識と知恵の違い ひとことで言うとですね、「知恵」は、自分の自己決定、決めて行動するという、決断。「決」というのは「決める」でしょ、「断」というのは「行なう」、決断ができる、そのもとになるものだと考えます。 知識ということだけだと、いくらそれがあっても決断はできないですね。もっと広く言えば、自分の人生の岐路、分かれ道を見つけられること。分かれ道を見つけられないと、どこかのスポーツ選手のように、「やるしかない」とか言いながらずっと進んで行って、後から失敗したなぁと気づく。 だから、知恵があるということはどういう場面かというと、人生の分かれ道を見つけられるのも一つの知恵だし、その中で自分の人生観にふさわしい一つの道を選べる、というのも知恵です。いくら知識があっても、その選択はできない。道も3つあるということが分からない。というような一つのたとえ話です。 だから、自分の人生の進むべき道を分からなければ、あるいは常に疑問をもって迷っていなければ、あるいは常に選択肢があるんだということが解っていなければ、いけないということです。 弁護士の相談について 知識がないと知恵は出てこない、ということはあるでしょう。つまり、知識というのは、知識社会において、みんなが持ってるということが前提です。そうではあるけれども、それだけでは価値がないでしょう。「私、知ってるよ。」と言っても、価値がない。 その知識の上に、人生の歩み方、知恵というものをもつ。自分もそれによって納得できる人生を送っているし、他人に対しても、その人の人生も受け入れて、その人の立場に立って受容して共感したうえで、説明してあげられるかどうか、ということが大切なのでしょう。 弁護士の場合なんか、最終的な場面まで悩んだ人が相談に来るわけでしょう。その人生の悩みを聴いても、「あぁ、それは大変ですね。」というふうに、外面上で形式的に同情や共感をするだけで終わってしまうことになりかねないわけです。そこから先の道を本人が見つけられないときに、道を見つけて示してあげなければならない、それが知恵です。 自分の人生だけじゃなくて、その人・依頼者・相談者の人生も、自分が受け入れて、そこを見えるようにしてあげられるかどうか。 知識だけだと、例えば法律ではこんなこともできます、こんな権利もあります、こんな訴訟のやり方もあるし、調停もあります、といくら表面的な説明をしてみても、それは知識のレベルに留まっているでしょう。だから、そこからただちに課題解決のための道は見えてこないわけです。 知識知恵の身につけ方 ある一定の知識レベルを超えると、世界がいっきに開けてくることがあります。それが、「身につく」、ということです。 知識を吸収して記憶の中に留めようというのが、一般には勉強ですけれども、それがずっと続いていって、それによって自分の人生を成り立たせていこうというような観点から体系的に学習することによって、自分の身に入ってくる。それは、入学試験の受験勉強などの短期の実現目標ではない場合に当てはまることだと思います。 身になってくると、結果として頭を使わなくとも、情報が、つまり刺激が与えられたならば、それによってただちに身体が反応するというのが、プロフェション、一般的なプロと評価されるということです。スポーツであれ、我々であれですね。 そういう場面までになるためには、どうするべきかが難しい。単に知識だけを、頭の記憶のためにつぎ込んでも、そうはならないということでしょう。 受験勉強について 司法試験の勉強なんかもそうですね。 私の受験(1975年に合格)のころは、昭和40(1965)年代後半ですから、司法試験の受験のための予備校なんていうのはなくて、それぞれの受験生が自分の大学に残って一所懸命に、自分なりの勉強をし、合格した先輩から教わったり、大学の先生に訊いたりして、やっていたわけです。 その中で、学修を進めると、ある時から、自分の頭の中で学説(論理的な考え方)を作れるようになるんです。問題を作れるようになってくる、問題を作れるということは、自分でどんな問題も解けるような気になる、自信がついてくるわけです。そういうところまでこう行くと、「法律=私の頭」という感じになって、身に付いた状態になる。 それから、例えば学校の教師になろうとして大学などで勉強する場合であっても、いま目の前にある本を読んで、あるいは講義を聴いて、それを知識として頭に入れようというだけだと、それで終わってしまう。高校や大学で期末試験をすると、単位が取れて、はい目標実現で終わり、という感じになってしまう。そのあとは、知識としてもほとんど記憶に残っていない。 知識を身につけて知恵に結び付けるためには、自分の10年後20年後を、あるいはできれば死ぬときの場面まで想定したうえで、今のこの勉強は何なんだろうか?と考えながら、聴いたり読んだりすることが大切だと思います。 (講師紹介) 1950(昭和25)年11月29日、山形県西村山郡西五百川村(朝日町)生まれ 地元の中学校、寒河江高等学校を経て、明治大学法学部 1973.3.卒業 司法修習・第30期を修了し 1978.4.〜弁護士 山形県弁護士会 会長(1995) 日本弁護士連合会 常務理事(1995) 日弁連公設事務所・法律相談センター(LC) 委員長(1998.6.〜2001.5.) (法律相談センターの全国展開を実現、ひまわり基金・公設事務所を創設、面接技術研究会を組織) 山形大学 人文学部 法学科・総合政策科学科 非常勤講師(倒産法、民事執行保全法)(1996.4.〜2003.3.) ≪NPO≫ 特定非営利活動法人プロネット 理事長 特定非営利活動法人21世紀国際交流教育福祉環境研究会 副理事長 社団法人東北ニュービジネス協議会(TNB) 監事(理事) 一般社団法人山形県高齢者福祉支援協会 顧問(理事) 山形県九条の会・憲法ネットワーク 代表委員 七日町商店街振興組合 理事・総務部長 東北和僑会 理事 ≪趣 味≫ 新しいシステムをつくる 講演(する、きく) 小唄 長唄 日本舞踊 バレエ、オペラ、歌舞伎、演劇などの鑑賞 ≪事務所≫ |